私は自閉スペクトラム症(ASD)という特性を持っています(多分)。ASDの人は「相手の気持ちを推測する力(認知的共感)」が生まれつき弱いとされています。けれど、だからといって認知そのものが歪んでいるわけではありません。
むしろ私は、数学のように慎重に分析して物事を判断します。わからないことは「わからない」と保留する。根拠もないのに「たぶんこうだろう」と言ってしまう人より、ずっと誠実だと思っています。
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たとえばよく使われる「SST(ソーシャルスキルトレーニング)」という方法があります。これは「空気を読む練習」をパターン学習で身につけるものです。けれど、実際には目の前の人の気持ちにフォーカスしているわけではありません。
言ってみれば「この図形は正三角形に見えるから角度は60度でしょ」と答えるようなもの。偶然正解することもありますが、必ずしも正しいとは限らない。多数派には通用しても、少数派の気持ちには当てはまらない。私はそこに強い違和感を覚えます。
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私自身は、古典演劇の稽古で「ビート解析」という訓練を少し受けた経験があります。これは、登場人物の感情の変化を一つひとつ細かく分析し、丁寧に追っていく作業です。その経験から学んだのは、人間の心はどれだけ複雑でも、真剣に観察し分析すれば理解できるということでした。
だからこそ、雑な分析で演技している役者を見ると「目の前の相手と本当に繋がっていない」とわかってしまう。私はそれを受け入れられません。この「本当に相手と繋がるために丁寧に分析する」という姿勢は、私の人生のテーマのひとつだと思います。
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現実では、多数派と反応や言葉の選び方が違うために、私はしばしば「奇人扱い」されてきました。それは「お前には欠陥がある」「間違っている」と言わんばかりの扱いです。私は人と違うことをよく理解していますし、合わせるつもりもありません。けれど、その「違い」をあたかも悪であるかのように迫害してくる態度は、差別以外の何物でもありません。
ただ私は、背が高く、成績も良く、見た目も派手で、治安の良い地域に育ちました。親譲りで気も強かった(意外とシャイだけど)。家も貧しくはなく、そして私が問題を起こすたびに、裏では母が支えてくれていたのかもしれません。
つまり私は「強かった」からここまでやってこれただけで、それは生まれながらに恵まれていたということです。
だからこそ、今の私にとって大事なのは、この違和感や感覚をどう周囲に伝えていくか。経験のない人にも届くように、どんな教育コンテンツを作っていけるか。結局そこに立ち戻るのだと思います。
論理的思考能力を高めるハイレベル数学講座と併せてね。
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I am on the autism spectrum (ASD). People with ASD are often described as having weaker cognitive empathy—the ability to infer or reason about what someone else might be feeling or thinking. This is different from emotional empathy—the capacity to resonate emotionally with another person’s feelings. In my case, while cognitive empathy may not come naturally, that does not mean my cognition itself is distorted.
On the contrary, I tend to analyze things carefully, almost like mathematics, before making judgments. When I don’t know something, I leave it as “I don’t know.” Compared to people who casually say “It’s probably this” without evidence, I believe my way is much more honest.
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For example, there is a well-known method called “SST (Social Skills Training).” This is essentially a kind of pattern learning to “practice reading the room.” But in reality, it doesn’t actually focus on the feelings of the person in front of you.
It’s like looking at a shape and saying, “That looks like an equilateral triangle, so the angles must all be 60°.” Sometimes you’ll get it right by chance, but not always. It may work for the majority, but it doesn’t apply to minority experiences. That gap is what gives me a deep sense of unease.
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I myself once had some training in “beat analysis” during classical theater rehearsals. This was an exercise in which you analyze each shift of emotion in a character, one by one, with great care. From that, I learned that no matter how complex the human heart is, it can be understood if you observe and analyze it sincerely.
That’s why, when I see actors performing with sloppy analysis, I can immediately tell they are not truly connected to the person in front of them. And I cannot accept that. To me, this attitude of carefully analyzing in order to truly connect with others has become one of the themes of my life.
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In real life, because my reactions and choice of words differ from the majority, I have often been treated as an oddball. It is as if people are saying, “You are defective, you are wrong.” I understand very well that I am different, and I have no intention of conforming. But to treat difference as if it were evil, and persecute it—that is nothing less than discrimination.
That said, I was tall, did well in school, stood out in appearance, and grew up in a safe neighborhood. I was strong-willed, something I inherited from my parents. My family was not poor, and perhaps my mother quietly supported me whenever I caused trouble. In other words, I made it this far only because I was “strong.” That strength itself was a kind of privilege I was born into.
That is why, for me now, the real question is how to communicate these senses and discomforts to the world around me. How to create content that can reach people who haven’t had the same experiences. In the end, I always return to that point.
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と、ここまではChat GPTで整えた文章でして
と言うのも先日、親友に、
「お前の文章は不親切だ」と指摘されましてね笑
まあたしかに並べてみると一目瞭然というか、
実際、さもしい事に、大人はわからない言葉とか、
当然自分で調べるでしょ、とか、
わかるまで想像力働かせて考えるでしょ、
とか思ってる自分がいたことに気づいたんだよね。
それはもうね。俺はそういう人間だからってことなんだよ。他人に対してね。
だけどまあ、他人からしてみれば、そこまでのモチベーションは俺に対してないわけで、
きっと他に仕事もあるしね。みんな忙しいんだよね。
俺みたいに古代ローマ人みたいな生活は誰もしてないわけだよ。
なのにそれを要求されてると肌で感じたら、たしかにそれはプレッシャーかもしれないよな。
優しい人であればあるほど、そのプレッシャーに押しつぶされそうになるのかもしれない。
俺はちっとも、優しくないと言えば、たしかにそうなのかもしれんと思ったよ笑
というわけで、原文はこちら。
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俺はASDだし、認知的共感能力は先天的に持ってはいないけど、認知が歪んでるわけではないと思うけどなあ。数学的に、けっこう慎重に分析して議論するタイプだと思うし、わからないことはわからないと判断するから、パターン的にこうだろうって言っちゃう人よりもむしろ誠実だと思うんだけどな。
SSTとか、まじで雑やなあとしか思わないもん。空気読むってこういうことなんでしょ?完全なるパターン学習で、目の前の人にフォーカスできてないってことだよね。それはマジョリティにしか適用されないわけでさ。マイノリティは基本的に当てはまらないよ?多様性はどこへいったのさ?妙だなあと思う。
俺はやっぱり、古典演劇のビート解析とか、少しでも訓練させてもらえた経験があるから、もうどれだけ複雑な心情の変化や、稀な性格の人であっても、細かく慎重に分析すれば答えに辿り着くって知ってしまったわけで。そりゃ雑に分析してる役者の芝居なんて見られたもんじゃないよ。
そういう人はもう、目の前の人と繋がらずに、演技するからね。本当にひどいもんだよ。ここら辺りはやっぱり、俺の人生のひとつのテーマなんだと思う。論理的思考能力だけじゃないんだよな。そんなことを企画書を作りながら思っていたよ。
まあこの感覚というか、違和感をさ。
どう伝えていくかなんだよね。
そりゃ経験のない人は、ある意味見たことのない景色だから、よっぽどの想像力とモチベーションがないと、理解できないのは当然なんだよね。そういう人にどう伝えられるコンテンツを作るかなんだ。
言ったらほら、たとえば図形の問題でさ。角度求めてくださいって聞かれて、図を見て正三角形みたいな形してるから60度って答えてるようなもんなんだよ。SSTってやつは。それで正解してしまうのが多数派の行動力学ってわけだけど、みんながみんなそうなわけないだろ?
けど俺はみんなと反応や人との向き合い方、発言の仕方が違うからって、奇人変人扱いされてしまうわけでさ。それはけっこう辛いなとは思うよ。だって差別と何が違うの?まあそれでも圧倒的に強キャラだったからここまで挫けずに来られただけであってさ。だから俺は恵まれてるって自分でも言うんだけど。

